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障害のあるあの子が恐かった〜『違う』と『同じ』と『多様性』

160919

小学校のときに、クラスに軽度の知的障害の子がいた。
軽度の知的障害、なんて言葉は今だから出てくるのであって、その頃は彼のことを皆「知恵遅れ」と呼んでいた。

話はこちらがちゃんと話そうと思えば、何でもできた。
癇癪持ちだったが、正義感の強い子だった。
でも私たちは、私は、自分たちとは違う彼のことが怖かった。
だからやっぱりいじめのようなものもあった。

先生は「〇〇くんはみんなと何にも変わらないんだよ」と言った。
本質的な意味では、つまり障害があろうとなかろうと命の価値は等しく同じであるという意味では、先生の言っていたことは正しい。

けれど私たちがあの時彼に抱いていた不安や恐れは、明らかに彼が自分たちと違うことから来ていた。
でも何が違うのか、どうして違うのかがわからなかった。

あの時先生には、『みんな同じ』という方向からではなく、『みんな違う』ということを前提として、じゃあ彼と皆の違いは何かということを、私たちが知らないことを教えて欲しかった。
そうすればその結果として、それが彼の個性だということを理解し、他の足の速い友達や、理科が嫌いな友達、泣き虫な友達と同じようにクラスメイトでいられただろう。

課外授業の田植えの時に、私の足にヒルが吸いついた。
助けられなくてオロオロしているクラスメイトの中から、彼はすっと出てきて泣き叫ぶ私の足から手で何事もないようにヒルを手でつまんでぽいっと投げた。
「僕はヒルなんか怖くないから、いつでも呼んで!」と言って、彼はまた作業に戻っていった。
私はあの時、彼にちゃんとお礼を言えたのだろうか。

パラリンピックが閉会した。
障害の面から、人の多様性と可能性を目の当たりにすることのできる素晴らしい大会だった。

特に見ていてすごくいいと思ったのが、解説が的確だったこと。
競技の特徴や各選手の障害、そして障害を補うためにどういう戦略が有効かとか、見る側が知っておくことでますますスポーツとして楽しめる情報をうまく伝えていたように思う。
過剰な演出なんていらないのだ、感動は、選手が直接伝えてくれる。
そこには、オリンピックとの違いなどない。

障害という『違い』に目をつぶり、『人類みな平等』と謳うことに意味はない。
逆に障害を特別扱いし、感動ものに仕立て上げるなど、それこそ「健常者目線」の差別に他ならない。(もちろん24時間放映される例のテレビ番組などのことである)

『違う』ことを理解することで、『同じ』であることを受け入れられる。
多様性とは、そういうことではないだろうか。